(3)因果関係と判断の誤り
前書き(3)は、因果関係です。
(2)の後半で考えた「順問題」「逆問題」というのは因果関係があることを前提にしていましたが、ある事柄が原因となり、別の事柄が結果として生じる、というためには何が必要なのでしょうか?
統計学を学ぶとわりと最初に方に
「相関は因果関係とは違う」
ということを学びます。これはこれで正しいのですが、相関までの入門的な統計しか学ばない人には、
「だから統計学は因果関係について語ることはできない」
と思っている人も多いようです。
また、現代的な統計学を作ったフィッシャーやネイマン、ピアソンといった人々も、統計学が因果的な物言いをすることをかなり厳しく禁じたようです。そのあたりのことは、また統計的因果推論について考える際に見ていきたいと思いますが、ここでは「因果関係」とはそもそもどういったものなのか、少し考えてみたいと思います。
因果とはなにか?
餌付けされた動物は人の足音を聞いただけで寄ってくるといいます。ある種の「条件付け」ですが、2つの時間的に前後関係のある出来事の間に何らかの繋がり=因果関係を求めるのは動物の持つ本来的な機能なのかもしれません。
しかし、これを科学の問題として正当化しようとすると、そこには困難が生じます。
たとえば、経験主義の哲学者ヒュームは因果関係を人間が反復的な経験から「習慣的に結びつけたもの」にすぎないと批判しました。
そうは言っても、われわれは因果関係という思考様式を捨てることは難しいだろうと私は思います。人はある商品が売れた/売れなかった理由を知りたいと思うし、ある薬が疾患に有効かどうかを知りたいと思うでしょう。
一方で、カントのようにこれらの因果関係を認識する力は人間にアプリオリに(経験に先立って)備わっている、という考えるのでも不十分です。なぜならば、どのような経験・観測結果があれば「因果関係がある」と認めて良いのかという規準が明らかでないからです。
さらに、因果関係を強く認めてしまえば、すべての未来の物事は現在の状態を原因として生じる結果として説明可能ということになり、そうなると例えば人間の「自由意志」はどこに存在するのか?といった問題が生じてきます。
ここに量子力学のような、本質的に確率論的な物理理論の登場が加わって、因果を巡る議論はとても複雑な様相を呈しているので、これを掘り下げる力は自分にはありません。
しかし、この問題に統計学がどのように関わってくるのか、ということについて考えていきたいと思います。
判断と誤り
因果関係をなにか経験から見い出すことの困難について、次のような例を考えよう。(これはラッセルの七面鳥の例えを少し変えたものです)
一羽の七面鳥が、あるときエサを与えられる前に人の足音が聞こえることに気がついた。
その後も観察を続けると、どうやら毎回、人の足音が聞こえたあとエサが与えられるという事実に間違いはなさうだった。
そこで、彼は人の足音がすると入り口近くのエサ場に近づくようになった。
しかし、ある朝、人の足音がしたので彼は入り口に近づいたが、彼はエサを与えられなかった。
その日は、クリスマス・イブだったのだ・・・
繰り返し起こる、時間的に連続する事柄に対して、なんらかの因果関係を見出すのは、このように誤りうるものです。もちろん、この例には突っ込みようがいろいろあるとは思います。(たとえば、飼育員という他者の意思の介在を考えるならば、これはゲーム理論のような展開になるでしょう)
しかし、誤りうる、だから帰納的思考や因果論的思考は無意味である、と言ってしまうのはあまりにももったいないというか、人間の思考の道具としてこれらを捨ててしまえば、科学的な思考はとても貧困なものになってしまうと私は思います。
統計学は誤りが起きることを議論のなかに取り入れることができます。統計学は絶対的な正しさをいうことはできませんし、なにかもやっとしたことしか言えないところに弱点があるようにも思えます。しかし、検定も区間推定も、その判断が誤っている可能性が0にはできませんが、その「誤る可能性」を量的に測ることができるところに強みがあると私は考えています。
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